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綿織物の発展

木綿


綿花

 安土桃山<あづちももやま>時代の慶長11年(1606)に、正能村(正能)の農産物を調査した記録には、木綿を栽培<さいばい>していたことが書かれています。畑の1区画ごとに作物の名前が書かれ、作物全体の約4分の1が木綿でした。

 これは正能村だけでなくほかの村でも同じだったと考えられるので、当時の加須では木綿の栽培がかなり広く行われていたことがわかります。

 

青縞の生産

 青縞は木綿糸の縦糸と横糸を紺色に染めて織った織物で、綿花(木綿の材料)から藍(糸を染める染料)の栽培まで農家がすべて行っていました。藍は昔、中国から輸入され葉や茎から染料が作られました。

 騎西町域の青縞の生産は明治時代の終りごろまで続き、明治42年(1909)に書かれた織物業資料には「騎西町では青縞の生産が多かった」と書かれています。

 

市の開設

 江戸時代の後半に書かれた武蔵志には騎西の町場では「市が4と9がつく日に開催され、米や麦・大豆・木綿・青縞を売り買いしている」と書かれています。

 また、やはり江戸時代の後半に書かれた新編武蔵風土記稿には「騎西町場は家が軒を並べて建っていて、旅館や店があり、毎月4と9のつく日に市が開催され、月に6回開かれていた」と書かれています。

 

 市がいつから始まったのかわかりませんが、江戸時代のはじめに描かれた武州騎西之絵図の町場には「六斎之市立(月に6回の市が開催される)」と書かれていることから、古くから定期的な市が町場で開かれていたことがわかります。

 

 騎西町場の市の開催日は、江戸時代の後半には4と9がつく日でしたが、いつの頃からか2と7がつく日へと変わり、大正11年(1922)には3と8のつく日に変わっています。

 青縞はこうした市のときに売られていたのでしょう。

 

木綿の売買


綿繰り

 綿織物は多くの人の手によって生産されています。村ごとに綿の仲買人がいて、実がついたままの綿を買い取り、繰り道具を使って綿の実を取り操綿にしました。そして、操綿を綿問屋へ渡し、綿打ちをして打綿にします。

 

 綿を糸にするときは、打綿を糸に紡いで綛(紡いだ糸を枠で巻いて束ねたもの)にして仲買人に売り、そして、青縞を織るときは、紺屋(染めもの屋)へ糸を渡して染色してから織ります。その青縞を買い集める仲買人が問屋に売り、問屋が呉服屋に売ったあと、ようやく青縞が消費者の手に入ったのです。

 

 江戸時代終りごろの安政3年(1856)に書かれた木綿問屋仲間には14人の名前があり、その中に騎西町域では4人の名前が書かれています。また、羽生や忍(行田市)の商人の名前も書かれているため、北埼地域に木綿の生産が広がっていたことがわかります。

 

藍染と信仰


愛染明王の文字塔 (上高柳 宝幢寺)

 愛染明王は藍染と音が似ていることから、多くの紺屋(染めもの屋)が信仰していました。

 騎西町には紺屋が建てた石塔が残っています。上高柳の大日堂には、江戸時代後期の寛政12年(1800)4月につくられた愛染明王の石塔があります。それには「杉田勘助」という名前が彫られています。また、同じ上高柳の宝幢寺には弘化4年(1847)2月に建てられた石塔があり、「杉田むめ・茂木なか・栗原くめ…」など4人の女性の名前が彫られています。

 熊谷市下川上の愛染堂は、江戸時代の中ごろから関東一円の紺屋に信仰されていました。お堂には天保14年(1843)に紅潭雪兆という人が描いた絵馬があります。この絵馬には「上高柳村紺屋六右衛門」の名前が書かれています。

 

愛染堂(熊谷市)

 また、お堂には総勢53名の紺屋がお金を出し合って奉納した銅製の灯籠があります。

 灯籠には、騎西町・下種足村・上種足村・根古屋村・下崎村・芋茎村・正能村にいた紺屋10人の名前があり、ほかに忍(行田市)・加須・大利根・菖蒲・鷲宮・久喜・幸手・栗橋まで及ぶ広い地域の人たちの名前が書かれているため、藍染は北埼玉郡や南埼玉郡・北葛飾郡の一部まで広がっていたことがわかります。

 

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