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騎西(私市<きさい>)城の攻防

画像:北越武鏡に描かれた騎西(私市)城
北越武鏡に描かれた騎西(私市)城

 騎西(私市)城は根古屋城<ねごやじょう>・山根城<やまねじょう>ともよばれた平城で、天守閣のない城でした。

 いつ誰の手によって築城されたかわかりませんが、室町時代の康正<こうしょう>元年(1455)に上杉藤朝<うえすぎふじとも>・庁鼻和憲信<こばなわのりのぶ>・庁鼻和憲明<のりあき>などの上杉軍が守っていた城を、古河公方足利成氏<こがくぼうあしかがしげうじ>が攻めたのがはじまりです。この時の戦いでは成氏軍が上杉軍数百人を討ち取っています。

画像:小田顕家の墓(鴻巣市 雲祥寺)
小田顕家の墓(鴻巣市 雲祥寺)

 このあと、騎西城は成氏の家臣の佐々木氏<ささきし>が城主になり、戦国時代になると小田顕家<おだあきいえ>が城主になりました。顕家は忍城<おしじょう>(行田市)主成田親泰<なりたちかやす>の子どもの助三郎<すけさぶろう>(朝興<ともおき>)を養子にして、種垂城<たなだれじょう>(昔は種足<たなだれ>を種垂と書きました)に隠居し、天文<てんぶん>8年(1539)に亡くなっています。

 永禄<えいろく>6年(1563)に朝興が守っていた騎西城を上杉謙信<うえすぎけんしん>が攻め落としたことは有名です。謙信はこの時の様子を手紙に「騎西城は四方が沼で囲まれていて深浅限りなく、一段と然<しか>るべき地である(非常に攻めにくい城だった)」と書いています。

 安土桃山時代の天正<てんしょう>18年(1590)徳川家康<とくがわいえやす>が三河国<みかわのくに>(愛知県)から江戸に移ると、松平康重<まつだいらやすしげ>が騎西領を与えられ2万石の城主になりました。騎西領は現在の加須市のほか、久喜市の一部まで及びます。

 康重は騎西の大英寺<だいえいじ>を建てたり、日出安<ひでやす>の保寧寺<ほねいじ>に領地<りょうち>を与えています。

 慶長<けいちょう>6年(1601)に康重が常陸国笠間<ひたちのくにかさま>(茨城県笠間市<かさまし>)に移ったあと、大久保忠常<おおくぼただつね>と子どもの忠職<ただもと>が騎西城主になり、玉敷神社<たましきじんじゃ>を現在地に移したり牛重<うしがさね>の妙光寺<みょうこうじ>に領地を与えるなど、城下町騎西を整備しています。

 しかし、江戸時代はじめの寛永<かんえい>9年(1632)に、忠職が美濃国加納城<みののくにかのうじょう>(岐阜県<ぎふけん>岐阜市)に移ると騎西城は廃城になり、約180年間続いた歴史の幕を閉じました。

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