武蔵武士<むさしぶし>と加須
鎌倉<かまくら>時代は政治の中心が貴族<きぞく>から武士<ぶし>に移った時代です。
源頼朝<みなもとのよりとも>は武蔵<むさし>に住んでいる武士<ぶし>の力を借りて、武家政権<ぶけせいけん>をつくりました。やがて、この武士たちは全国に広がり、武家社会の形成に大きな役割<やくわり>を果<は>たしました。騎西<きさい>地域にも頼朝に従って活躍<かつやく>した鎌倉武士が多く住んでいました。
室町<むろまち>時代になると、古河公方<こがくぼう>の足利氏<あしかがし>と関東管領<かんとうかんれい>の上杉氏<うえすぎし>との戦<たたか>いが関東を舞台<ぶたい>に行われ、騎西<きさい>地域では騎西(私市<きさい>)城<じょう>がその争<あらそ>いに巻き込まれています。
道智氏<どうちし>
発掘風景
野与基永<のよもとなが>の子どもの野与頼意<よりおき>が、道智<どうち>(道地<どうち>)に住んで道智頼意<どうちよりおき>と名<な>のりました。そして、頼意の孫<まご>のときに道智氏・道後氏<どうごし>・多賀谷氏<たがやし>・笠原氏<かさはらし>に分れました。
鎌倉<かまくら>時代はじめの建久<けんきゅう>元年(1190)に源頼朝<みなもとのよりとも>が上洛<じょうらく>(京都に行くこと)したとき、道智次郎<じろう>が従<したが>っています。また、鎌倉<かまくら>時代前半の承久<じょうきゅう>3年(1221)にあった、宇治橋<うじばし>の合戦<かっせん>(京都府宇治市<きょうとふうじし>)では道智三郎太郎<さぶろうたろう>が活躍<かつやく>しています。
加須市立田ヶ谷小学校<たがやしょうがっこう>の北側にある、道地の成就院<じょうじゅいん>という寺の周辺が道智氏の館跡<やかたあと>と考えられ、付近には中屋敷<なかやしき>や鍛冶屋敷<かじやしき>などの館に関連する地名が残っています。
周辺の発掘調査<はっくつちょうさ>では、井戸<いど>・円形<えんけい>や四角形の穴<あな>が見つかり、常滑<とこなめ>(愛知県<あいちけん>)で焼かれた甕<かめ>や、中国で焼かれた青磁の皿が出土<しゅつど>しています。
多賀谷氏<たがやし>
出土した刀の先
出土した土器
道智頼意<どうちよりおき>の孫<まご>のときに、道智氏から分れて多賀谷<たがや>(内田ヶ谷<うちたがや>)に住み、多賀谷氏と名<な>のりました。道智氏<どうちし>と同じように源頼朝<みなもとのよりとも>が上洛<じょうらく>(京都に行くこと)したときに頼朝に従<したが>い、また、多賀谷兵衛尉<ひょうえのじょう>が武蔵野<むさしの>を開墾<かいこん>しています。
多賀谷氏は鎌倉<かまくら>で行われた正月行事の“弓始<ゆみはじ>め”の射手<いて>(弓矢<ゆみや>を射<い>る人)として代々活躍<かつやく>しました。のちに常陸国結城<ひたちのくにゆうき>(茨城県結城市<ゆうきし>)に移っています。
多賀谷氏の館跡<やかたあと>は内田ヶ谷の大福寺<だいふくじ>周辺と考えられ、付近には寄居<よりい>(武士<ぶし>が寄せ集まっているところという意味)・タテヤマ(館山<たてやま>と考えられます)などの館に関連する地名が残っています。
伊賀氏<いがし>
種足地内遠景
鎌倉<かまくら>時代の終りごろ、種垂<たなだれ>(昔は種足<たなだれ>を種垂と書きました)は鎌倉幕府<ばくふ>の有力な御家人<ごけにん>だった伊賀氏<いがし>の領地<りょうち>になっていました。弘安<こうあん>10年(1287)には、伊賀光隆<いがみつたか>が子どもの伊賀光清<みつきよ>に種垂の土地を譲<ゆず>っています。
伊賀氏の館跡<やかたあと>がどこにあったのか、わかっていません。
戸崎氏<とさきし>
戸崎<とさき>の竜宝寺<りゅうほうじ>付近が戸崎氏<とさきし>の館跡<やかたあと>といわれ、周辺には元屋敷<もとやしき>や城附<しろつき>などの館<やかた>に関連する地名が残り、戸崎城<じょう>があったという言<い>い伝<つた>えもあります。
平安<へいあん>時代終りごろの寿永<じゅえい>3年(1184)に、源頼朝<みなもとのよりとも>が伊豆国<いずのくに>(静岡県<しずおかけん>)で鹿狩<しかが>りをしました。このとき戸崎国延<とさきくにのぶ>が、ほかの弓の名手<めいしゅ>といっしょに射手<いて>(弓矢<ゆみや>を射<い>る人)になっています。国延は鎌倉に戻ったあとの祝宴<しゅくえん>で、このときの鹿皮<しかがわ>を頼朝からいただきました。戸崎城跡遠景
このほか、鎌倉<かまくら>時代はじめの建久<けんきゅう>6年(1195)に、奈良で東大寺修理<とうだいじしゅうり>の完成祝<かんせいいわ>いが行われたとき、国延は頼朝に従<したが>っています。
発掘調査<はっくつちょうさ>では、土塁<どるい>の跡<あと>や堀<ほり>が見つかり、陶磁器<とうじき>が出土<しゅつど>しています。高柳氏<たかやなぎし>
上高柳遠景
大河戸氏<おおかわどし>から分れた一族<いちぞく>で、高柳郷<たかやなぎごう>(上高柳<かみたかやなぎ>・加須市下高柳<しもたかやなぎ>)に住んでいたといわれますが、その館跡<やかたあと>がどこにあったのかはわかっていません。
鎌倉<かまくら>時代はじめの建久<けんきゅう>6年(1195)に、奈良で東大寺<とうだいじ>の修理完成祝<しゅうりかんせいいわ>いが行われたとき、高柳行元<たかやなぎゆきもと>が源頼朝<みなもとのよりとも>に従っています。
また、建長<けんちょう>3年(1251)に鎌倉幕府<ばくふ>の将軍藤原頼嗣<しょうぐんふじわらよりつぐ>が、伊豆山権現<いずさんごんげん>(静岡県熱海市<しずおかけんあたみし>)と箱根権現<はこねごんげん>(神奈川県箱根町<はこねまち>)を参詣<さんけい>したとき、行元の孫<まご>の行忠<ゆきただ>が従<したが>っています。
葛浜氏<くずはまし>
上崎・下崎遠景
高柳氏<たかやなぎし>と同じく、大河戸氏<おおかわどし>から分れた一族<いちぞく>で、葛浜郷<くずはまごう>(上崎<かみさき>と下崎<しもさき>周辺)に住んでいたといわれていますが、その館跡<やかたあと>がどこにあったのかはわかっていません。
鎌倉<かまくら>時代はじめの建久<けんきゅう>2年(1191)に源頼朝<みなもとのよりとも>が伊豆山<いずさん>権現<ごんげん>(静岡県熱海市<しずおかけんあたみし>)と箱根権現<はこねごんげん>(神奈川県箱根町<はこねまち>)を参詣<さんけい>したとき、葛浜行平<くずはまゆきひら>が従<したが>っています。
佐々木氏<ささきし>
室町<むろまち>時代に古河公方<こがくぼう>足利成氏<あしかがしげうじ>と室町幕府軍<ばくふぐん>の上杉氏<うえすぎし>が関東を舞台<ぶたい>に戦<たたか>っていました。
五十子陣跡遠景(本庄市)
康正<こうしょう>元年(1455)、上杉氏や庁鼻和氏<こばなわし>などの上杉軍が守っていた騎西<きさい>(私市<きさい>)城<じょう>を成氏が攻撃<こうげき>し、上杉軍は数百人が討死<うちじに>しています。
文明<ぶんめい>3年(1471)に行われた、五十子陣<いかっこじん>の戦<たたか>い(本庄市<ほんじょうし>)のとき、上杉軍が守っていた五十子陣に対する古河公方の武将<ぶしょう>の中に、私市の佐々木氏<ささきし>の名前があります。そのため、康正元年以降は佐々木氏が騎西城主<じょうしゅ>になっていたと考えられています。
騎西城の発掘調査<はっくつちょうさ>では障子堀<しょうじぼり>・井戸<いど>・円形<えんけい>や四角形の穴<あな>・建物<たてもの>の跡<あと>などが見つかり、そこから、さまざまな武器<ぶき>や生活に使った道具が出土<しゅつど>しています。小田氏<おだし>
種垂城跡周辺航空写真
佐々木氏<ささきし>のあとに騎西(私市<きさい きさい じょうしゅ>となったのが小田顕家<おだあきいえ>です。 顕家は文亀<ぶんき>2年(1502)に上会下<かみえげ>(鴻巣市)の雲祥寺<うんしょうじ>を建て直し、また、忍城<おしじょう>(行田市)主<しゅ>の成田親泰<なりたちかやす>の子ども助三郎<すけさぶろう>(朝興<ともおき>)を養子<ようし>にして、騎西城主にしています。そして、自分は種垂城<たなだれじょう>(昔は種足<たなだれ>を種垂と書きました)に隠居<いんきょ>して天文<てんぶん>8年(1539)に亡<な>くなりました。
小田顕家<おだあきいえ>の墓<はか>
鴻巣市<こうのすし>
雲祥寺<うんしょうじ>