18 騎西城合戦物語<きさいじょうかっせんものがたり>
松山城<まつやまじょう>(吉見町)を助けに行った上杉輝虎<うえすぎてるとら>(後の上杉謙信<けんしん>)は、すでに城が降伏<こうふく>したとの知らせを聞いて、敵方<てきがた>の騎西城<きさいじょう>(城主<じょうしゅ> 小田助三郎<おだすけさぶろう>)を攻撃<こうげき>することにした。
騎西城はまわりを沼で囲<かこ>まれ攻<せ>めにくい城であったので、勝敗は簡単にはつかなかった。輝虎は高台<たかだい>に登り、城の様子を観察した。しばらく見てみると、本丸にかかる橋を行ったり来たりする、女性の姿が水面に見えた。
輝虎が「もはや本丸・二の丸は、女・子どもだけだ。今夜にも攻<せ>め落としてみせようぞ!」と言った。
城を守る武士たちが、城の外に隠れていることを知った輝虎は、夜に攻撃することを思いついた。いかだを組み、沼から二の丸へ攻め込み、さおに付けた提灯<ちょうちん>に火をつけて、塀<へい>をいっせいに叩<たた>いて大声をあげた。
「それっ、ぬかるな。一人残らず切ってしまえ!」
中に隠れていた女・子どもは突然の攻撃に悲鳴を上げた。本丸へと橋をはって逃げる姿は、かわいそうなくらいでした。
この騒ぎを知った城を守る武士たちは、二の丸の方を見てみると、揺れ動く提灯の明かりが、燃え上がる炎のように思えた。
「すでに二の丸は乗っ取られたか。残念だ!」
すっかりあわてた武士たちは、そのすきに攻め込まれ、まもなく騎西城は敗れてしまいました。
合戦は、永禄<えいろく>6年(1563)3月のことでした。
上杉輝虎(謙信)の騎西城攻<ぜ>めは、いろいろな書物にでてきます。『北越武鏡<ほくえつぶきょう>』では、輝虎は正能<しょうのう>・龍花院<りゅうかいん>前に陣<じん>をしいたと書いてあります。
また城主 小田助三郎については、輝虎が書いた手紙の中に「やさしい気持ちで許<ゆる>した」と書いてありますが…「すべて殺した」とか「自害<じがい>した」などの記録もあります。
ちなみに、この騎西城合戦物語は『関八州古戦録<かんはっしゅうこせんろく>』を、やさしく書きなおしました。