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産業の発展

青縞<あおじま>

北埼玉地方では地味が綿花、藍の栽培に適していたため、かなり多くの農家で作付けが行われました。農家の女たちが農閑期の副業として綿糸を紡ぎ、近所の紺屋で糸を染めそれを原料として青縞を織り、工賃を稼ぐ習慣は古くから行われていました。

騎西町は本場青縞の主産地となり、明治初期までは唯一の集散地として賑い、当時は、二・七の日に市場が開かれ、市場商人が道路に蓆を敷いて生産者である農民を待ち受け、青縞を買い取りました。

その後騎西町では青縞の生産は減少し、それに代わって白木綿の生産が徐々に増加し、これに反して加須町では、騎西町の衰退とともに市場が盛況となり、五・十の日に上町と仲町に市がたち、約30名の業者が出て青縞を買入れました。この盛況は明治30年(1897)ごろまでつづきましたが、その後取引額は減少し、騎西町と同様に白木綿の生産が増加していきました。

明治30年以降は、青縞の集散地は羽生町へ移り、同40年ごろには製品の大部分は羽生で取引され、加須町、忍町でその残りを、騎西町ではごく一部が取引されるのみとなりました。

明治40年ごろ、埼玉県内での青縞の主産地は羽生町を中心とする北埼玉地方であり、年間の生産量は約170万反、金額では約160万円となっており、その生産の大部分は農家の副業で、羽生町を中心とした加須・忍・騎西等の買継ぎ問屋を経て、東京・京阪・名古屋・東北の各地方に送られました。