産業の発展

銀行

日本の銀行は、明治以降に英米などの先進国から移植されその第一歩を記すこととなりました。
 江戸時代の商人たちは両替<りょうがえ>や為替取引<かわせとりひき>や貸付などを行いましたが、これらの金融業者の役割と、明治以降の銀行とは実質的な結びつきを持ちませんでした。
 明治政府は、富国強兵<ふこくきょうへい>・殖産興業<しょくさんこうぎょう>をもとに国の近代化をはかろうとしました。そのため、明治はじめ以来銀行は設立しやすく、明治34年には全国2385行もありました。しかし、経営内容が貧弱なものが少なくなく、日清・日露戦争後の不況で銀行の整理集中がすすみ、大正15年には普通銀行数は全国で1400行台になってしまいました。さらに、第一次世界大戦の反動、関東大震災、金融恐慌が起こり、「銀行法」の改正とともに銀行の合併がすすめられました。

その結果、昭和元年に1587あった銀行が、昭和12年には452行となりました。また、昭和11年には一県一行主義がとられ、昭和20年には58銀行となりました。

当市域においては、明治30年ごろまで加須町が青縞の集散地として繁盛したことや、東京への物資を供給する地であったので金融機関が必要となり、当地方では最初の銀行として称隆銀行が設立しました。

称隆<しょうりゅう>銀行

当地方における最初の銀行である称隆銀行は、明治16年(1883)5月、根岸七兵衛(加須町)、岡戸勝三郎(下手子林)ら18名によって北埼玉郡加須町に設立されました。
 地元産業の振興と発展に尽くしましたが同26年1月解散されました。

加須銀行


加須銀行の株券

加須銀行は、明治30年(1897)3月15日、資本金6万円をもって加須町大字加須155番地に設立されました。設立当初の取締役は、頭取清水近太郎(加須町)で、同銀行は、その後着実に発展し、明治33年10月には資本金を倍額増資して12万円とし、大正3年ごろ久喜支店を新設し、同8年7月、資本金を50万円に増資しましたが、昭和12年(1937)5月、武州銀行に合併されました。
 1943年(昭和18年)7月、八十五銀行、忍商業銀行、飯能銀行が合併し埼玉銀行となり、1991年(平成3年)協和銀行と埼玉銀行が合併し協和埼玉銀行となりました。
 その後、名称変更、合併を経て現在の埼玉りそな銀行になりました。

栗橋銀行加須支店

栗橋銀行は、明治31年(1898)6月、北葛飾郡栗橋町に資本金5万円で設立されました。同銀行は、開業後一年余の明治32年12月、北埼玉郡加須町に支店を設けましたが、その後大正15年(1926)12月、栗橋銀行が忍商業銀行に合併されたのに伴い改称しました。
 その後昭和16年、太平洋戦争がはじまり経済の統制が強化されました。金融業界も大蔵省の方針により一県一行主義が勧告され合併の気運が高まりました。
 昭和18年(1943)4月、第八十五・忍商業・飯能の四銀行が合併して、株式会社埼玉銀行を創立しました。これに伴い忍商業銀行加須支店も埼玉銀行加須西支店と改称されましたが、翌19年、店舗統廃合によって埼玉銀行加須支店と再改称されました。

埼玉共同無尽株式会社<さいたまきょうどうむじんがいしゃ>


埼玉共同無尽株式会社
(多門寺 網野尚久氏提供)

埼玉共同無尽株式会社は、大正2年(1913)10月10日、資本金2万円をもって加須町大字加須1014番地に設立されました。設立当初の社名は埼玉共同貯金株式会社といい、標記の社名は後に改称され、社長は網野豊次郎(三俣村)で、同4年11月7日、埼玉共同貯金無尽株式会社と商号を変えました。
 翌5年4月には資本金3万円に増資し、同年11月10日、北埼玉、南埼玉、北葛飾三郡を営業区域とする埼玉共同無尽株式会社と社名を改めました。昭和2年(1927)6月には、加須町大字加須952番地に当時としては近代的な店舗を新築し移転しました。

昭和16年8月17日、「改正無尽業法」による無資格会社であった本庄無尽・熊谷無尽・埼玉無尽の三無尽会社は、埼玉共同無尽と合併して武州無尽株式会社を創立しました。同19年6月、武州無尽は大日本無尽株式会社に合併され、これに伴い、武州無尽加須支店は大日本無尽埼玉支店加須出張所と改称されました。21年4月には支店に昇格し、同26年10月「相互銀行法」施行により日本相互銀行加須支店となり、同43年12月、普通銀行転換によって太陽銀行と行名を改称し同48年(1973)10月、神戸銀行との合併によって太陽神戸銀行加須支店となりました。

加須町信用組合

加須町信用組合は、大正7年(1918)10月1日地元中小商工業者に対する金融の円滑化をはかるため北埼玉郡加須町に設立されました。
 設立当時の役員は組合長に富田茂一郎が就任し、事務所は、荒物商川田正一郎宅に隣接した土蔵造り二階建て店舗を仮用して営業を開始しましたが、大正14年加須町大字加須910番地に当時としてはモダンな鉄筋コンクリート二階建店舗を新築移転しました。昭和22年(1947)12月24日、県下九信用組合が合併し埼玉県信用組合が設立され、埼玉県信用組合加須支店と改称し、のち昭和26年6月信用金庫と改称されました。

騎西銀行

騎西銀行は、明治31年7月5日、北埼玉郡騎西町に資本金7万円で設立されました。
  同銀行の頭取酒巻敬之助は、早くから忍商業銀行の監査役となっていた関係から同銀行との結びつきが深く、このため大正11年(1922)6月、合併の契約が成立し翌12年3月17日、両行合併によって忍商業銀行騎西支店と改称されました。